1.1. 課長からの一言
1.2. 青年海外協力隊
1.3. 受験までの道のり
1.4. 選考試験、そして退職
1.5. 二度目の面接、私が協力隊になった理由
25歳、九州の歴史ある大学院を卒業し、某大手通信事業社Nに入社。
それなりに、安定思考で生きてきたはずだった。
ある日、隣の課長に言われた。
「おまえ、海外協力隊とか行ってみたいだろ」
え?と思った。何言ってんだろうこの人、と。
自分は三重支店に所属していた。隣の担当は日常的に故障修理のためにフィールドに出ているのだが、緊急業務で人が不足すると、うちの課もがそちらのサポートをすることもある。困ったときは、担当問わず助け合ってとなって対応しよう、という所長の哲学によるものだ。
会社の夏休みを使ってインド旅行に出かけ、帰国したころ。
三重県に平成16年豪雨というすごい台風がきて、橋が崩れたりしたときだった。県内、特に紀州と呼ばれる南の地方は未曾有の被害で、所内に災害対策本部ができ、慢性的な人手不足となった。私は無線担当の課長・主査とともにフィールドへ出かけた、その帰りの車内での話。
インド旅行に行った話から、ダッカの王様がどうとか、支離滅裂な方向に話が進んでいたとき、課長が言ったのが、冒頭のコメント。
青年海外協力隊、という存在はなんとなく知っていた。
が、そんな無茶な制度に、それほど興味はなかった。
現職参加制度、という制度があり、会社に籍を置いたままで行くことができる、という。給料も、会社からもらえると。
当時の8年目の先輩で、その制度を使ってセネガルに赴任していた人がいるという。
その話をきっかけに、俄然興味を持った。
保険のある冒険、そんな良い話が世の中にあるのなら、ぜひ行きたい、そう思った。
調べてみると、ちょうど説明会があると。
場所はアスト津。職場のあるビルの下層階。
タイミングは今だ、説明会に参加した。
そんな2004年、会社員一年目の出来事。これがなければ、今でも俺は某大手通信事業者で、安定感のあるサラリーマンとして、毎日過ごしていたように思う。
たぶん。
青年海外協力隊(JOCV:Japan Overseas Cooperation Volunteer)は、独立行政法人国際協力機構(JICA:Japan International Cooperation Agency)の一事業であり、100を超える職種の隊員が50以上の発展途上国へ派遣されている。募集および選考は春・秋の年2回、派遣は年4回行われており、各回200人程度の隊員が派遣され、原則2年間の派遣期間となる。現在までに通算約4万人が派遣されている。
現地では、役場や学校に配属したり、省庁に入ったり、公的な機関において活動している。
派遣の前には福島と長野に分かれて派遣前訓練という合宿が行われ、語学や生活力、国際協力に関する知識などを養う。
派遣される国を任国、地名を任地と呼ぶ。また派遣のタイミングを隊次、と呼び、たとえば私の場合、平成19年の2回目(9月)の派遣をH19-2といって、この隊次でいわゆる同期や先輩、後輩といったくくりがなされる。
ちなみにボランティアとは本来は志願兵という意味であり、この制度も無給を意味しているものではない。技術料が発生しない、という理解らし。住居は提供され、現地での生活費、赴任前の準備金や、さらに2年後の準備のためという名目で、国内積立金というものもある。生活費は現地物価にあわせたものだが、US$300~500/月程度が現地口座に支給され、国内積立金も10万円/月ほど、日本の口座に支給される。(国内積立金は減少し、現在は5万円/月)
2年間の派遣中は、特別な理由がない限り、日本に帰国することはできない。また、一部の周辺国への旅行が許可されており、延べ20日間の任国外旅行という制度もある。(これも現在は変更され、任国外旅行は20日/年となり、かつ、日本も対象国に含まれている)
説明会に参加し、自分にも参加できる可能性があることがわかり、いっそう気持ちが高まった。理数科教師という職種があり、一部の要請は教員免許がなくても、理数系の大学を出ていれば応募が可能だとのこと。それから、常に、いつ行くのか、を考えるようになった。
入社してすぐだったこともあり、会社では育成担当との進路面談が半年おきに開かれていた。そのタイミングで、話をすると、それについての条件を見せられた。
・自分の業務と関係があること
・入社して3年以上経過していること
・将来的にこの経験を会社に生かすことができる人材であると会社が認めること
という、3つ。
どれもこれも、当時の自分は条件を満たしていなかった。3つ目はよくわからんけど。その時点では、あきらめるでもなく、貫くでもなく、ひとまず参考情報、という受け止め方をした。
それからいろんなことがあった。インドから一年たって、カンボジアへの旅行。アンコールワットでは、たくさんの物売りの子供たちと接した。避けるでもなく、お金をあげるでもなく、話をした。どう接するのか正解なのか、自分はどう接したいのか、わからなかった。
三重で暮らしていて、いろんな出会いがあった。職場の知り合いの紹介でいったカフェのトイレで、GOMAさんのライブのフライヤーを見て、ライブを見に行った。そこでもらったフライヤーで、チベットチベットを見に行った。てんつくまんという人の講演も見た。そこでもらったフライヤーを見て、アースセレブレーションという佐渡島のイベントを知り、そこにも行った。出会いが出会いを呼び、多くの衝撃を受けた。
新潟で地震があった。友達がそこにボランティアにいっていた。そのときの絵が、フジロックのスクリーンに映ったこともあった。
アジアンジャパニーズとか、深夜特急とか、アジア旅の本をたくさん読んだ。
自分は何をやってるのか、毎晩のように悩んで、眠れなくなった。
何も不自由ない暮らしをして、それに不満を抱いて。
世界中には生きることに精一杯担っている人がいる。
生きるために生きる人たちがいる。
悩んで悩んで、悩んでてもしょうがないことに気づいた。
とりあえず、動かないと何も進まない。
理論無き行動は無。行動無き理論は死。
繰り返される諸行無常。よみがえる性的衝動。
向井秀徳が何回も言ってる。
選考試験を受けることにした。会社には行きながら。課長には話をした。応援してくれた。
一次試験はwebベース。合格。二次試験は広尾のJICAひろば。
数百人が受験しにきていた。筆記試験は、通常の理数系の試験。面接も、志望動機や、技術的な試験が少し。
問題なく進んでいる、はずだった。
試験の待機中に周辺にいた人たちとは仲良くなった。このときの出会いは、その後にとても大きな影響があった。
地域別で、周りは東海周辺の人たちだったために、その後も交流をした。
派遣前訓練、実際の赴任、先輩も後輩も同期も、出国を見送ったり、見送られたり、ナミビアにも仲間がいたし、帰国後も交流を続けている人たちもたくさんいる。
健康診断ということで、問診があった。
提出した健康診断書に不備があり、その場で血圧を測定することになった。
普段から、ただでさえ血圧検査には気を使っている俺。
前日は名古屋で飲み会、夜行バスで東京まできた俺は、見事に基準をオーバーした。
結果、一度目に受けた試験には不合格となった。
原因は、普通は実施されることのない、二次試験での現地健康診断。
ただそれだけ。
仲間たちが先に受かったのを見送りつつ、同じように落ちた仲間と、次の回に受験をした。
そんな簡単に、行けるわけがない。
試練を与えられたんだな、と感じた。
それから、節酒に励んだ。
次の受験が終わるまでは、お酒は一席で3杯まで、というルールを作り、実行した。
次の受験までに大きな変化があった。
会社を辞めることにした。
中途半端なままではいられない、気持ちは完全に協力隊に向いていた。
というと、志を持って退社したんだから、ポジティブな転職だ、といわれることが多いのだけど。実際には、会社で部署編成があって、仕事が若干めんどくなった、という理由ももちろんある。
両方、良くも悪くも。
「課長、ちょっとお話が。。。。」
というあの瞬間。
好きな子に告白をするような、そんな緊張感。
人生初の退職願い。
前の課長には話してたのだけど、その人に話したのは初めて。
業務上、かなり頼られていたこともあって、課長はうろたえていた。けど、その翌日までには、主査、部長、支店長、それから別のロケーションにいる前所長にまで話が飛び交っていった。
人事の人とは喧嘩をした。「こんな安定した会社を辞めてどうするのか」と、禁句のようなことを言われた。「安定してると思ったらいけない、勝負していこう」、ということを会社に言われているところで、なめてんのかと思った。
「君の評論家の話じゃなくて、君の言葉が聞きたいんだよ」と、痛いところをつかれた。
「それがわかんないから困ってるんですよ」と、珍しく大きな声を出してしまった。
会社を辞めるという話を上司にしてすぐに、一番初めに上司だった人が連絡をくれた。忘れもしない、駅前の串カツ屋。
「お前みたいなやつが課長になったら、うちの会社も面白くなるのになぁ」と言われた。そういえばこのころ入社した後輩には、「あなたみたいな人がいるんだったら、俺もいてもいいかなと思って」といわれた。
みんな変なことを言う。
恒例の鳥羽の民宿での忘年会。幹事だった俺。
宴会のはじめの挨拶を部長に任せようとする直前、「今日ばらすからな」、こそこそと部長に言われた。
ひとまず一次試験の合格を無事に確認し、退職した。
面接を二回も受けると、さすがに自分の気持ちが整理できてくる。
整理できてくるというよりも、これはほとんど思い込みで、自分はこういう風に思っているんだな、という文脈が自分の中にできてくる。自分が本当にそう思っているかどうか、について、もはやこのフェーズにくると問題ではない。
なぜ協力隊に行ったのか、よく聞かれる質問。
冒頭に書いたとおり、課長からの一言がきっかけではある。
面接で話したのは、Give me 1 dollorの答えを知りたくて、という文脈。
旅行先でよく耳にするこの言葉。どういう対応をするのが正解か、というのは、諸説ある。
あげない理由としてよく言われるのが、金くれと言われてすぐあげると相手は援助慣れしてしまう、1人に1ドルあげたところでみんなにはあげられないから不公平、問題はもっと深いのだからその場の解決だけではいけない、日本人がお金をくれると思ってしまってほかの旅行者に迷惑がかかる、などなど。
そんな理由では納得いかなかった。どう考えても、自分が何かをすべきだと思った。けど、本当に彼らが何をしてほしいかなんて、わからない。どうしたらいいのか、悩んで悩んで。
一緒に暮らしてみたら、少しはなにかわかるんじゃないだろうか、そう思った。
それが一番のテーマ。
2年間住んで、それから時間がたって、自分の中では一応の答えは見つけつつある。
二回目の面接だったので、対策はできていて、完璧にこなした。
退社していて時間もフリーだったので、食生活も改善し、現地でまさかの血圧検査があっても大丈夫なようにした。
一次試験で健康診断書を提出したのだけど、それからも節酒は続け、無事に二次試験をクリアし、晴れて派遣が決まった。
合格通知にはこう書いてあった。
平成19年度2次隊、理数科教師、ナミビア。
ナミビアってなんだ??