3. 涙と嗚咽にまみれた二本松研修

3.1. 派遣前訓練とは

3.2. 語学訓練

3.3. 生活班

3.4. サッカー大会

3.5. 居酒屋安兵衛

3.6. 疑われた英語のテスト

3.7. 最後の授業、そして卒業式


3.1. 派遣前訓練とは

青年海外協力隊として各国に派遣される前に、65日間(時代によって異なる)の合宿形研修に参加した。毎日数時間の語学訓練を中心に、それ以外にも途上国での暮らし方や、国際協力とは何かという講座であったり、また妙なルールに縛られることによる、異文化体験など、現地に派遣される前に持っておくべき資質を磨くための研修である。

派遣後の2年間のインパクトに勝るとも劣らず、ここでの2ヶ月間の経験は、不思議な経験として大きなインパクトがあった。

いわゆる協力隊の同期、というくくりは、ここでの2ヶ月間の共通体験をもって作られるものであり、派遣される国が異なるだけでなく、世代や職業の壁を超えたさまざまな出会いがあった。


3.2. 語学訓練

研修の中心となるのが語学訓練。通常の外国語会話教室としての授業と、職種ごと、つまり私の場合には理数科教師としての、テクニカルクラスの二本立てで展開される。


ちなみに普段の生活も語学訓練という位置づけであり、生活棟から研修棟に入った時点で

「speak in your own language」

という張り紙があり、派遣国の公用語で話すことが、1週間たったころから義務付けられた。

夜自習しているときも、英語で話す。

だんだんと自主的に変化が起こり、食事中も英語で話すようになっていった。

この異様な経験は貴重だ。


クラスは英語のテストで振り分けられたのだが、同じクラスになったのは、全員が技術補完研修で知り合った仲間たちだった。つまりは、全員が無免許教師。そしてなぜか学歴や職歴を見ると、いわゆる日本の技術屋としてそれなりのキャリアを持つ人たちが集まっていた。

先生はマイク。朝はヘッドフォンをしてロックを聴きながら陽気に現れ、授業中には自分のデザインしたキャラクターで単語を教えるナイスガイ。

テクニカルクラスはといえば、英語での模擬授業。先生から与えられた単元についての授業をし、クラスの仲間が生徒。デビーという、いかにも国際協力に興味ありますって雰囲気の人で、まじめな先生だった。何をしても、基本的にはほめることしかなかった。


マイクの授業はいつも楽しく、どんな状況でも英会話を楽しむことができた。一度、突然怒り出したことがあったのだけど、それもブラフなんだろうな、とわかる程度に。

思い出に残っているのは、Rage against the machineの話。好きな音楽の話になったときに、そのバンドの名前をだすと、マイクが割り込んできた。machineってのはsystem、要するにgovernmentを暗喩しているもので、彼らは反体制のスタンスなんだ、と。ああ、こいつめ、と。


テクニカルクラスはといえば、通常は気楽にやっていた。というよりも、うちのクラスは優等生系なので、生徒役となる仲間たちが、無茶なことをしない。無茶な質問はしても、それは本気でテクニカルな質問であり、途上国を意識した演技的な質問ではなかった。

ずっと疑問だった。こんなのでいいのか。自分はこんな中途半端な状態で行けるのか、と。先生として、このままではいけない、と。しかし日々を暮らすので精一杯だった。


後半にさしかかったころ、チームでの実験授業があった。

このときだけは、テクニカルでマイクが担当になった。

ほかのクラスの人と一緒にコンビを組んで、実験授業をやる、というもの。

何のテーマだったっか、今はもう忘れてしまったけれど、その授業で、コテンパンに駄目だしされた。

いきなり。


面食らった。


そして先生二人の前で再授業。

もうどうなってるのかさっぱりわからなかった。

この研修で一番きつかったのがこのとき。

つらくて部屋で何度も泣いた。


これが一番初めだったら、と、何度も思った。

いまさら叩き潰されても、と。


3.3. 生活班

訓練の生活構成について、総勢170名ほどが50音順に10班にわけられ、各棟へ。棟ごとに3フロアあって、各フロアに二つの談話室と、それを囲むように個室がある。トイレはフロアごと。風呂はすべての班で共通の風呂。

個室はベッドと机だけ。たまに談話室に出て行って、おしゃべりをしたりする。毎日夜には班会が開かれ、点呼や、班長会議の周知などが行われる。

班には班長と副班長がいて、そのほかの人たちもいろんな役割を与えられる。

同じ班とはいえ、談話室が二つあるため、その二つのグループに、自然と分かれることになる。


毎朝朝礼とラジオ体操があり、それは班の単位。その流れで朝ごはんを食べにいく。私は個人的に友人と朝ごはんを食べることも多かったが、基本的には班ですごしていた。


何度か、問題も起きた。


ボランティアスピリッツとは何か、という講義があって、それは、各自が思うボランティアとは、ということについて話し合おうという講義。第一回は訓練の初めのころに、全体で行われた。

第二回は、訓練が終わるころ、班で行われた。

そのとき、みんながなんで協力隊になろうと思ったのか、という話になった。

自分を好きになりたいから、自分を成長させたいから、という自分を中心とした意見が多く出たとき、ふと気づくと、ある範囲内で見ているものが間逆だったことに気づいて、はっとした。偶然だったのか、どうなのか、それは問題も起きるだろう、と。


20~40歳の大人が2ヶ月も同じフロアで生活していれば、異常な状態になるのもおかしなことではない。

とても不思議な体験だったけど、ああいう体験は、確かに、無いかもしれない。


3.4. サッカー大会

訓練所での生活はほとんどが英語の勉強と授業の準備でいっぱいいっぱいだった私だが、週に1度体育館でのミニサッカーに参加していた。

訓練所ではいろんな人がいろんなことを企画、運営している。ワークショップだったり、講習会だったり。その一環で、レクとして週に2回の体育館サッカーが、知らぬ間に定着していた。


高校生のときに、中学の同級生と草サッカーを始めて以来、人生にサッカーを欠かしたことは無い。本格的にクラブに所属したことは一度もないが、常にレクとしてのサッカーを日常としている。


ここでも、そうだった。

協力隊の中には、体育隊員として任国でオリンピック選手を指導するような、ほぼプロのような人たちもたくさんいる。そのときにサッカーを運営していたのも、元Lリーグの肩書きを持つ子だった。


最後の締めとして、大会が開かれた。

出場したい人は掲示板の張り紙に名前を書いておくことになってたのだけど、私の名前は一番上に書いてあった。「ひでは強制だから」とか言われたような記憶。


確か4チームの総当りで、代表者の名前をとってチーム○●となっていた。

チームヒデ、チームカズ。

冗談のようだが、ナミビア行くときまでずっと相方になっていたのはカズという名前。


チームメイトにも恵まれ、チームヒデは優勝し、なぜかMVPまでいただいた。

完全なレクだけど、こんな風にサッカーで、形として評価されたのは人生で初だったので、本当にうれしい体験だった。


3.5. 居酒屋安兵衛

二本松市内の観光地、岳温泉。訓練所から一番近い一般施設はここ。コンビニに行くにも、この温泉街のコンビニが一番近い。

訓練中は食事を抜くことができず、週末に限り、食事の要不要を確認される。不要、とすれば食べるものがないので、岳温泉に行くことになる。

ちなみに土曜日に限り、外泊も可能。


金曜土曜となると岳温泉に飲みに行くのが定番。

一回目の週末は班での飲み会に参加したものの、その次は語学研修のクラスの仲間と、事前に派遣されていた友人から紹介された居酒屋に行った。

以前は夫婦で経営していたらしいが、そのころはおばちゃんが一人でやっていた。飲み放題付きコース3000円。コース料理はおばちゃんがその日の気分と客のオーダーに任せて作ってくれて、飲み物は客がセルフサービスで。

そんな、安兵衛というお店。


居心地が良かったこともあり、ちょっと離れた場所にあって混雑度も低かったこともあり、毎週のように通うことになった。気づけば2ヶ月の間に10回以上、そこで飲んだ。

班の飲み会、語学の飲み会、任国の飲み会。いろんな飲み会が行われた。


ナミビアに行ってからも、ことあるごとにおばちゃんと文通を重ねていた。

帰国後に顔をだすと、お店にはポストカードがたくさんはってあった。

ちなみにナミビア時代の駐在員に当たる人もこことは仲が良かったとのこと。


帰国後もときどき挨拶にいっているが、現在の状態は悲しいものだ。


福島県二本松市といえば、福島原発から約50km。たくさんの人が避難してきている場所でもあり、協力隊の訓練所も事故直後には避難所として使われていた。

そのため、一時的にではあったが、訓練所としては使われなくなり、岳温泉の集客は激減した。


何かできないか、と思い、ナミビアに仲間を連れて、沿岸部のボランティアがてら宿泊に行った。

自分たちは、呑みに行くだけ。現地に何もできないけど、岳温泉が寂れているのは我慢できなかった。

ダンボールに、洋服を詰め込み、おばちゃんのもとを訪ね、夜は岳温泉で飲んだ。


数年たった今、依然として放射線量の高い場所でもあるため、観光者は減ったまま。

周辺の土地の価値もすっかり下がってしまったと。

自宅の庭の草むしりをしたとしても、それは放射性廃棄物となるため、燃やすこともできないし、捨てることもできない。庭においておいても、業者は改修しにきてくれない。

もう草むしりはあきらめた、と。

さらに、事故対応を含めた除染業者の宿泊所、または居住地となりつつあり、町の雰囲気が変化しているとのこと。


除染業者の求人を見ると、全国津々浦々、多くの業者の名前があり、しかも日給は1万円を優に超える。求人数は数百人単位。

永久に続くであろう除染産業。

そしてその従事者の滞在のために使われる周辺の町。


町の商業は少し潤うのかもしれないが、失うものは少なくない。

沖縄に見られる軍事産業や、原発立地自治体と、まったく同じ現象がここにも生まれている。


3.6. 疑われた英語のテスト

訓練も終盤にさしかかってきたころ、突然事務局側からの通達があった。

最後に語学の試験がある。それに合格しないと派遣はできないので、その試験に合格するために、勉強をしてください。なので、基本的には外出禁止です。

という。


毎週文字通り泣きながら訓練を受けてきて、サッカーと居酒屋でどうにかごまかしてきた自分にとっては、ストレスの頂点。

訓練中には週報の提出というのがあったんだけど、そこに文句をただただ書きなぐった。


そして語学試験が終わった。

それまで、ルールどおり、外出は我慢したので、飲みに行くことにしていた。


外に出ようとすると、理数科教師の語学チーフが、自分たちが出かけるのを見て、怪訝な様子。

訓練所長も、同様。

「明日単語のテストでしょ?」


理数科教師に限っては、確かに、その翌日も単語のテストがあった。

毎週一度の、恒例のテスト。

もちろん、それに受からなければいけないことは承知しており、必死に勉強していたので、そこでどう思われようと、関係ない。


その日の飲み会を終え、翌日の単語テスト。

思いのほか早く終わったので、退室。一番早く退室したと記憶している。


そして翌日の語学のクラス。テストの合格を受け取った。

そのとき、マイクに聞かれた。

「チーフがお前の答案だけ2人でチェックしてたぞ。なんかしたのか?」


頭が破裂しそうだった。

前日飲みに行ったのに、一番に退室し、かつ合格していることが不満だったのだろう。

大人なんだから、優先度付けくらいできてるし、そのうえで自分のやりたいように行動しているつもりでいた。

それを許せない人がいるのか、と。

コントロールされてないことが許されなかったのか。


ひどく腹が立った。

腹が立ったけど、それ以上何も無い。

もう訓練は終わる。


マイクは理解してくれてたから、それで落ち着いた。


3.7. 最後の授業、そして卒業式

いろいろあった訓練生活だが、いつも中心にあったのは語学、特にテクニカルクラスの模擬授業の準備、反省、実施だった。

最後の授業は、今までの自分のクラスではなく、隣のクラスの人たちに対して授業をする、というもの。

自分たちの隣のクラスというのは、一番成績のいいクラスで、教員免許持ちの新卒や、帰国子女、派遣されて一週間で帰った問題児など、さまざま。もっとも行きたくない部屋だった。


私の授業のテーマは重心。力学。


訓練中、5回ほど模擬授業をしたが、気持ちよく終わったことは一度もなかった。

最後くらいは。

いくら英語や教鞭に秀でた人たちだとはいえ、物理の、特に力学の知識では負けてはいけない、自信を持っていかねば、という思いが強くあった。


当然、うちのクラスにも隣のクラスから教師役がやってくる。

それを順々に見ながら、自分の出番が来て、おそるおそる隣の教室へ。


はじめは本当にびびっていた。震えていた。


が、優等生ぞろいのわがクラスとは違い、常にコミュニケーションが起こるため、私が一人で黙々と話すという状況にならず、楽しく進めることができた。

理論を表現するための準備物も、よく伝わったし、生徒役のみんなにも、すごくほめて貰えた。


まさかの大成功。

あの、技術補完研修のときの、やりきった感動があった。

人生で2度目の授業成功体験。


終わった後、自分の部屋に戻って、また泣いた。


入所したころからずっとだったが、某SNS上で、気持ちをずっと書いてきて、愚痴ばかりで。

仲間もそれを見て、SNS上で暖かいコメントをくれていた。


終盤になってくると、本当につらいことが多く、精神的にもぎりぎりの状態になっていた。

そういうときに、そのコメントが大きな励みになった。


声を出して泣いたことも何度もあった。


最後の授業を終えて、卒業式。

卒業式というか、退所式。


ついに、候補生から、協力隊員として認められる、という日。


生活班の人たち、語学班の人たち、事務局のひとたち。

たくさんの人たちと一緒に泣いた。

どうしたのかっていうくらい、泣いてばかり。


所長と少しだけ雑談する機会があり、

「あなたはいつ私のところに来るかって、ずっと待ってたんだけど」

と言われた。


200人いるなかの1人でしかない自分だが、週報に愚痴っていたことを見てくれていたんだろうな、と。

驚いた。


そしてまた、泣いた。