4. 飛行機から見たナミビアは火星のようだった

4.1. ナミビア入国

4.2. 首都での暮らし

4.3. 任地omuthiyaへ


4.1. ナミビア入国

二本松での訓練を終え、2週間の間にいろんな人に会ったり飲み会したりキャンプしたり、忙しい毎日を過ごし、出国の日を迎えた。2007年9月のこと。

成田空港で、ともに南部アフリカに出国する仲間たちと、二本松以来の再会を果たした。

何人かの友達、家族、親戚が見送りにきてくれていた。

 


 

チェックインを済ませて出国。

機内でのことはまったく覚えていない。。。

香港を経由して、南アフリカまで、日本から20時間くらいだっただろうか。

南アフリカに到着し、ナミビア、ボツワナ、南アフリカ隊員はそこで宿泊。マラウイ、ザンビア、モザンビークの隊員は各地へ直接行くため、そこでお別れとなった。

協力隊は現地に入国する際には大使館に挨拶をしにいくのだが、ナミビア、ボツワナには日本大使館がないため、兼務している南アの大使館に挨拶に行くことになっていた。

ジョハネスブルグは、世界でも3本の指に入る危険な都市、といわれている。空港にいる時点で、後ろを取られるな、と脅される。ミニバスに乗って、ゲストハウスまで移動。町には人が歩いてない。途中の大きなショッピングモールで昼ごはん。モール内には多くの人がいた。

信号が赤でも止まってはいけないらしい。襲われるから。

ゲストハウスに入るときには電子錠のついたゲートをくぐる。

 

大使館へ挨拶にいき、ゲストハウスへ。少し休憩して、南ア隊員のいるゲストハウスまでタクシーで移動し、その晩はそこで飲み会。訓練で仲の良かった人もいれば、そこで初めてしゃべったような人もいる。偶然にも、半年前まで同じ町に住んでいた人も、いた。

 

帰りはタクシーを呼んで帰ったのだが、ゲストハウスでタクシーを待っているとき、門の外に不振な人がいた。アフリカについて初めての夜、しかも南アフリカ。このときの怖さといったら無かった。

 

翌日、空港まで行き、ナミビアへのフライト。まさかのダブルブッキングで、5人中3人はビジネスクラスとなり、優雅な空の旅。たった1時間半ではあったのだが。

ナミビアの空港に着陸するときに空を見ると、そこは火星のような。。荒野。何も無い。赤い。


ナミビアの空港にて、入国の際になんとなく揉める。緑パスポート(公用)だから、余裕で通過できる、という話だったのに。そこにJICAナミビア事務所の調整員(Volunteer Cordinator。要するに駐在員)が登場。こんなところまで入っていいのか、と思いながら、彼のおかげでどうにか入国に成功。


荷物チェックも無事通過。

そのとき某君だけは、持ち込んだ大量のコン▲ームについて追求されていた、ということがその後明らかに。。。


町までの道もやはりなにもなく、サバンナ、という単語がぴったりの景色。

ひとまず、アフリカ、という気分になった。

町はずいぶんと整備されていて、驚いた。

JICA事務所に到着し、挨拶。


それから宿へ。この後2年間、ずいぶんと懇意にしてもらいお世話になることになるotjari houseというゲストハウスに、初めて泊まったのがこのとき。

1ヶ月間の首都研修が始まった。




ちなみにナミビアメンバー、ホントは6名だったんだけど、1人は怪我のため出国時期が遅れて、5名。

私はカズと同部屋。2つのベッドルームと、リビング、キッチンも。

ザックさん、ユーキ、スーさんは、3人で。

 

初日は香港レストラン、という名前の中華料理屋さんに連れて行かれた。

毎回、隊員を受け入れる日はここ、というのは恒例行事ということがわかったのは、それから先の話。

 

ナミビアに、着いた。


4.2. 首都での暮らし

1ヶ月間の首都研修。内容は、ジンバブエ人による英語の語学研修と、現地語のレッスンも少々、安全対策講座、などがあったが、主たる目的としては、国に慣れること、首都で何ができるかを知ること、だった。

ナミビアの首都Windhoekは、ドイツ・オランダ系の白人たちにより、かなり整備されている。途上国、とはとても言えないレベル。しかも上下水道の整備もなされており、水道水が飲める。ドイツ系の資本が入っているせいで、ビールがうまい(Windhoek Lagar)。

 

そんな暮らし。

朝起きてご飯をつくり、研修に向かい、夕方には宿に戻る。宿は丘の上にあり、庭から素晴らしい景色を見ながらビールを飲む。晩御飯を食べる。

そんなリゾートな毎日。


一応ジンバブエ人(バンベ先生)による授業があるものの、訓練所で優秀すぎるアメリカ人の英会話教室を2ヶ月受けてきた身としては、正直なところ物足りない。

バンベ先生が経営している私塾で、模擬授業も実施したけれど、ごくごく普通に終わってしまった。

塾にきているような生徒は、モチベーションも違うので、正直ここでの授業は実際の参考にはなりにくいものだった。

 

早く任地に行きたい。

自分が行きたかったアフリカはこんなものじゃない。

 

首都研修の後半はほとんどそういう思いばかりだった。

 

先輩隊員がいろんな場所に連れて行ってくれたのは面白かった。

1ヶ月の滞在中のWindhoekでぜひ印象深かった場所としては、Joe's beer house、Hero's acre、Kataturaなどだろうか。

 

Joe's beer houseは、各種ゲームミート(ジビエ)を食べられるレストランで、なかでもナックルといって、クドゥという獣の足を丸ごと煮込んだようなものが食べられる。おいしいというよりは、見た目の出オチ的なメニューなのだが、原始人が食べる肉、というイメージ。これに関しても、新しい隊員が赴任してくると、とりあえずこのレストランにいって、メニューを見せずにこれを注文する、という悪しき慣習が生まれた。

 

このレストラン、普通のメニューも美味しい。

白人が多く、旅行者も、たくさん集うレストランである。

 


 

Hero's acreというのは、独立戦争の英雄をたたえて作られた場所で、日本で言うと靖国神社に近いのかもしれない。

何が印象的かといえば、ここは北朝鮮の支援で作られている、ということ。

日本では何かと世界から孤立しているということになっている北朝鮮だが、仲の良い国もある、という側面を知る。

ナミビアの独立記念日には、要人が訪問するため、首相官邸の周りの道路を北朝鮮国旗が並ぶほどである。

 


Kataturaはいわゆる黒人居住区。屠殺場があり、肉を解体しているのだけど、そこで表で炭火で焼いている肉が本当においしい。マーケットのようなものもあり、モパニワーム(芋虫)の乾燥させたものだったり、ナミビアでつまみといえばこれといえる、ビルトン(干し肉)なども売っている。


言ってみればスラム地区といえる場所ではあるのだけど、ナミビアのカラッとした気候のせいか、アフリカ人らしい明るさのせいか、陰湿な雰囲気はまったくない。


3Gインターネット用のUSBデバイスの契約も、ずいぶんと手間取った。何度もテレコムナミビアに足を運び、何度も問題を抱え、なぜかテレコムナミビア本社オフィスの技術部にまで訪問した。

そのとき、エンジニアと話をしていて、今度中国にトレーニングに行くんだ、といっていた。


まさかそのときには何も思わなかったのだが、テレコムナミビアのメインベンダーはHUAWEI。帰国後に私が入社することになる会社であり、中国にトレーニングにも行った。その研修センターにはコートジボワール人や、セネガル人がいたのだが、まさかここでつながるとは思いもしなかった。


南ア大使がナミビア大統領と会談するというタイミングがあり、そのときはナミビア協力隊員と南ア大使とで、食事をする機会もあった。普通に暮らしていたら、外交官クラスの人とご飯を食べるなんて、まずありえないことだろうと思いながら、参加。


NICEという、ナミビア最高級のレストランにて、寿司。

マグロ漁が盛んであり、またノルウェー産のサーモンも手に入る、と。

寿司もあるし、肉も食べられる。

食後にはケーキもコーヒーも。


日本人として、自分の中にあった画一的なアフリカ観は、ナミビア入国1ヶ月の首都研修で、完全に吹き飛ばされた。


そして1ヶ月が経過し、ついに任地のomuthiyaへ赴任となった。



4.3. 任地omuthiyaへ

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ナミビアでの私の職種は理数科教師、任地は北部OmuthiyaのEkulo Senior Secondary School。事前にグーグルマップで航空写真を確認したものの、荒野が広がっているだけで、何も無い場所だった。


一般的には、首都からコンビ(ミニバス)に乗り込んで、北部を目指すことになる。ナミビアでの国内移動については、基本的にこのコンビが中心となる。ハイエースに15人くらい詰め込んで、N$150前後、1000円強で、800km、半日近くかかる長旅。途中で人を降ろしたり、追加したり、といったこともある。B1という国道を走っていき、北のゴールは決まっているものの、乗り降りはそれぞれの客によって異なる。

コンビステーションというのがあり、そこで車に人をつめていき、満席になったコンビから出発していく。1台ずつではなく、各自が競い合って複数のコンビに少しずつ載せていくため、運が悪いと出発までに数時間かかることもある。


私の学校は町からは遠いため、国道をひた走るコンビの運転手に対し、途中でおろしてもらうことになる。特に目印もなく、この辺だな、というところでおりると、学校へ続く道がある。荒野であり、夜到着するときには、降りる場所を通り過ぎてしまうこともあった。


ちなみにコンビの中で隣の席のナミビア人に、小銭入れをすられたことがあった。珍しく気を抜いており、窓際に座ったのもかかわらず、人がいる方のポケットに財布を入れてしまった。すられたものの、その後中身だけ抜いて返却してくれて、そのときに目が覚めて、気づいた。たいした金額でもなく、面倒だったので、自分のせいだと反省し、彼については見逃すことにした。が、足をフレームにおしつける、という無茶な報復行為をしておいた。

途中の休憩で彼はビールを買っていたが、足を引きずりながら帰ってきた。そのビールは私の金で買ったものだろうし、足を引きずっているのも私の報復のせいだろうし、なんとも複雑な気分になった。


と、コンビの話はそういう按配なのだが、赴任のタイミングに関してのみ、JICA事務所の車で、スタッフのベンと一緒に、荷物を積んで学校へ向かった。


赴任。


同じ学校に、先輩隊員であり、いまや弟のような関係にある、しゃー君がいたため、不安はとても小さかった。

学校敷地内の教員寮。2LDKでともに暮らすことになった。

正直なところ、他人との同居はめんどくさいと思っていたが、次第にどうにか過ごす術を身に着けていった。



礼で簡単に挨拶をした記憶がある。

その程度。

 

赴任は10月で、ナミビアは1月~12月の学期制なので、すでに終わりも近づいており、年末には単位の関係する試験もあるため、ひとまず3ヶ月は授業にもつかずおとなしくしていることになった。

オフィスには来なければいけないということで、オフィスで授業案などを作成していた。

 

毎週はじめに行われる朝礼は、基本的に英語で行われているのだが、盛り上がってくると現地語のOshiwamboになるので、まったく意味がわからないままに過ごした。

 

赴任してすぐに同僚の結婚式があり、そこにも参加。

西洋式の教会での結婚式と思いきや、そのあとには伝統的なスタイルの式を見ることもでき、さらにはまったく関係ない人の式にも参加して、美味しいご飯を食べた。

トラックの荷台に、生徒と一緒に乗り込んで移動する様はなかなか面白い様子だった。



3ヶ月の生活は、現地に馴染むための期間、と位置づけていた。

ガス、水道、電気の無い生活を望んで協力隊になったのだけど、インフラの整備度合いは予想をはるかに裏ぎられる状況だった。

 

水は飲めるし、ガスコンロもあるし、電気も、インターネットもあった。

しゃー君が買ったテレビもあった。

 

冷蔵庫はよく壊れた。

何度交換してもらっても、毎回古いタイプの冷蔵庫が届き、喜んで食料を買ってくると、また壊れる、という魔のループ。

普段からいろんなものが使える、というのは生活を楽にするが、使えるはずなのに使えない、というのは苦しい。それだったら、もともと使えない、ほうがマシなんじゃないか、と何度も思った。

 

そのあたりのインフラについての自分の理想と現実とのギャップは大いにあったものの、それについても、同居に慣れるのと同様に、次第に諦めと受け入れで、馴染んでいった。

 

ちなみに食料調達については、学校からは周囲5キロ程度何もなく、5キロほど離れたところにomuthiyaという町があり、スーパーや肉屋があったため、毎週末にそこにいって調達していた。

基本的にはヒッチハイク。ヒッチハイクといっても無料ではなく、固定でN$7.5を支払うのが通常。払わなくても良い、という人もいる。ヒッチハイクは現地の生活の大切な足でもある。車がさっぱりつかまらないときには、ひたすら歩いた。何もない国道。途中の道端で酒(どぶろく)を飲んでいる人がいて、そこでちょっと団欒したり、寮に入れない生徒がトタンの家に住んでいて、そこを訪問したり、しながら。

 

食料は、野菜はニンジンとたまねぎ、ジャガイモくらいしかなくて、ときどきキャベツが手に入ればいいところ。肉屋は、そのときどきにつぶした肉を売っており、安くて美味しい肉が手に入った。また、マーケットではつぶした肉をつるして売っていて、それも良く食べた。揚げ物やてんぷらのようなものも売っており、それを買って帰って、ビールと肉で週末を過ごすのがルーティンになった。



 

ときどき、しゃー君が100キロ離れたondangwaやoshakatiという、ナミビア北部の中心となる町に遊びにいっていたため、そのときにはいろんな野菜をお土産に買ってきてくれたりもした。

ナミビアの大きなスーパーは、欧米のそれと同様の規模であり、食料品から製菓類、酒にいたるまで、本当になんでも手に入る、といえる程度であった。

ちなみに100キロさきまでどうやっていくか、というと、omuthiyaの町から乗り合いのタクシーがでており、それで行く。コンビステーションと同様、満席になるまで出発しないので、一人で乗るとなかなか出発してくれなくて大変なことになる。どこの町でもこのシステムがナミビアの日常。

 

食事としては、自炊だったこともあり、基本的にはパスタを食べていたが、時に米を食べることもあった。

それに加えて、クノールのスープの素を使って、たまねぎとジャガイモと肉でスープを作る。

このクノールが数十種類あって、毎日飽きない。

それが基本的な毎日のご飯。

 

ちなみにナミビア人の主食は、シマ、とかポリッジというもの。メイズと呼ばれる、とうもろこしの甘くない、いわゆるヒエを粉状にし、それをお湯に混ぜて、餅というかババロアというか、そういう状態にしたものを食べている。

私はほとんど食べなかった。

パスタ食べてるナミビア人もいるのだし、あえてポリッジばかり食べる必要もないだろう、と。

 

平日は学校でゆっくりと。

週末はマーケットに買出しに行って、部屋でビールを飲んで過ごす。

ときどき生徒が遊びに来るので、それに付き合う、というのが日常になった。

 

ゆるい日常。

だんだんと気候も厳しくなりながら、のんびりとしたアフリカな日常に慣れていった。