2.1. 人間力
2.2. 技術補完研修
2.3. 祖父の死
海外協力隊に行くような人たちは、きっとすごい人たちなんだろう、と思い込んでいた。
このままいったら痛い目にあう、人間力を向上させる必要がある、と。
まず、禅修行体験にいった。3泊4日。もともと祖父の祖父に当たる人が寺の住職だったこともあり、自分のルーツを探るという部分で、非常に興味のあった世界。ちょうどうちと同じ臨済宗の修行体験施設が京都の亀岡にあると知り、参加してみた。
京都禅センター http://www.zazen.or.jp/
安宿のドミトリーのような場所に宿泊。貴重品用のロッカーがあり、私は4日間携帯電話をここにいれておくことにした。
ちなみに入所のときにお話をしてくれた住職はちょうど出張ということで、年長の修行者が住職代わり。なぜかスイス人。スイス人のお経で解脱を目指すことになった。一緒に修行していたのは、中学生や高校生もいたし、外国人も数名いた。
朝は4時過ぎに、住職が鈴を鳴らしにきて、起こされる。清清しく響き渡る音に、寝坊などありえない。
目覚めの太極拳をして、朝の座禅。20分を3回。1月の京都はとても寒い。
はじめは20分の座禅になかなか慣れなくて、きつかったものの、だんだんと気持ちよくなった。
1:2の割合で呼吸。10秒吸ったら20秒吐く。鼻から吸って、口から吐く。鼻にはフィルターがついているため、次第に体の中がきれいになっていくそうだ。数を数えるのは大切で、数息感といって、数を数えながら呼吸をすることで呼吸と数に意識が集中し、ほかの事を考えづらくなるという、瞑想の初級者用の方法だそうな。
ご飯を食べるときにもルールがあり、まず、食器が配られる。毎日同じものを使う。配られたら、パパッと広げて並べる。まわってきたおかずをよそう。お経を読んで、食べる。食べるときにもルールがある。終わって片付けるまで、ルールがある。
おそらく、そのルールにしたがっていれば、いずれは無の状態で食べることができるようになるのだろう。無、というのは、つまり、おいしいとかまずいとかではなくて、ただ、食べている、ということ。食べたいとか食べたくないとかでもなく、食べている、だけ。
ご飯が終わると、たくあんとお湯がくばられる。
たくあんで茶碗を洗い、お湯できれいにして、全部飲む。
エコ。
座禅していると、何をやってるんだろう、なぜ自分はここにいるんだろう、いろんなことを考える。けど、何も考えず、そこにただ座っている、という状態が、いわゆる無なんだろう。
do it only to do it、が真髄なのだろうというのが、ここでの理解。
何をやっているときでも、集中していると気持ちがいいのは、要するに何も考えない状態になっているから。
理解するのと実践するのはまた程遠いことなわけで。
考えるより、動くこと、だと思う。
それから、農家の住み込みにも従事。ボラバイト、といって、ボランティアとアルバイトの半々のような。私の行ったところでは、住み込みでご飯を食べさせてもらって、給料は月7万もらえた。岡山のトマト農家。
朝5時におきて、朝ごはんを食べて、作業。10時に休憩があって、作業。12時過ぎに昼ごはんを食べて、また休憩があって、午後の作業。5時に終わってお風呂に入って、夜ご飯の準備。夜ご飯の準備はお手伝いをする。ご飯を食べたらすぐにばたん。
農家とはいえ、時期が時期だったため、収穫には立ち会えず。土作りや、ハウス作りなど、事前準備が主だった。
竜巻が隣の畑のビニールを吹き飛ばすのを見た。
10時の休憩でお酒を飲んでたりした。
肉体的にはかなり厳しかったけど、農家での1ヶ月は充実していた。
ここでも結論は同じ。
集中しているときの心地よさ。
終わった後はしばらく親指が動かなくなるくらい、きつかったけど。
結局のところ、今の社会、生きることに対して余裕があるから、考えすぎなんだと思う。
生きている理由はなんだろう。
考える必要なんてなかった。
生きることに集中していれば、生きるために生きていられるはず。
協力隊の派遣訓練へとつながっていくのだけど、予想に反して、こういう経験値が必要だったのかどうなのか、結局はよくわからない。
が、人間力がどうとかはわからないけど、何か感じることのできた体験だった。
協力隊になるにあたって、派遣前訓練という合宿がある。そこでは語学を中心に海外での生活力を高めることを目的としている。その前に、一部の候補生を対象に、技術補完研修という研修が行われる。たとえば私のように、教員免許を持っていないのに教師として派遣される場合や、何の技術もないまま農業系の要請で派遣される場合に、その技術を一朝一夕に身につけよう、という目的である。
ちなみにここで候補生というのは、派遣を控えた合格者のことを指し、派遣前訓練が終わるまでは候補生として扱われる。(現在は派遣前訓練に入るときに候補生ではなくなる、という話)
無免許なのに派遣されうるのか、という疑問もあるのだが、派遣の条件は任国の要望にしたがって日本との間に結ばれた契約であり、あくまでボランティアという性質上、アリ、ということになる。
というわけで、教員免許を持たずに教師として派遣されようとしている私は、補完研修の対象者であった。
東十条の安いビジネスホテルに1週間こもって、研修を受講した。
内容は、教師とはどういうものか、という座学に始まって、途中からは授業演習の繰り返し。
授業演習は毎日の準備が大変だったし、実験の講座は今になってみると面白かった。
義務教育レベルの実験講座すら、大学を出た今初めて意味のわかるものなのかもしれない。
3回ほど模擬授業をした。
最後の最後に選んだのは、理科。音の授業。
大学では力学研究室に在籍し、振動学は一応専門だったこともあり、最後の模擬授業にはこのテーマを選んだ。
これで失敗したらどうしようもない。
1週間で授業できるようになんてなるはずもないけど、せめて最後に自信をつけていこう、という意味をこめて。
完璧だった。
自分にできる最高の授業ができて、かつ、楽しかった。
模擬生徒役の仲間たちにも、納得してもらえた。
このときの授業の感動があったからこそ、この後もやっていられたと思う。
そしてここで1週間ともに戦った仲間たち。
派遣前訓練でも半数以上が同じ語学班となり、この後の大切な仲間となる基盤がここでできた。
毎日一緒に飲み、いろんな話をして、充実した研修であった。
派遣前訓練の1ヶ月ほど前のことだった。
父親から電話があり、祖父が死んだ。92歳。大往生。
長い間、母が自宅介護していた。
ナミビアに行く前のことで、葬儀に参加できたことは、本当にありがたかった。
家族も親族も、悲しんでいたのはもちろんだが、ある意味では、祖父の幸せな死に感謝もした。
父方の祖父が死んだとき、小学校6年生だったのだが、不思議なことを考えていた。
「泣かなきゃいけないんだろうな」と。
泣くようにしていた、んだと思う。
悲しかったのはもちろんだけど、実際涙が出るほどだったのかどうか、覚えていない。
今回も、そう思っていた。
弟は、祖父の遺体を目にしたとき号泣していたが、私はどちらかといえばそんな弟に衝撃をうけた。
泣かないんだな、とも思った。
死、ということに関して、悲しいことではなく、生物として当たり前のこと、と考えているところもある。
10年以上一緒に住んでいないので、近しい人として感じられなくなりつつあるのかもしれない、とも思う。
葬儀にあたって、弔辞の役を与えられた。
孫が弔辞を読むというのが、ひとつの流行でもあるらしい。
父が喪主であり、その次に続く、孫代表として。
読み始めてすぐ、泣いた。
祖父に語りかける文面を作った。
書いてるだけで泣きそうになったが、実際に葬儀で読み始めたら、一言目から涙が止まらなくなった。
みんな泣いていた。
後から聞いたら、父も泣いていた、らしい。泣いたとこなんか見たことないのに。
自分もちゃんと心があるんだな、と思えた。
泣いてるよ俺、と思ってる自分もいた。
満州、シベリアで戦ってきた、尊敬する祖父に、アフリカ行きを報告した。