7. スター誕生。ナミビアサッカーキャラバン開始

7.1. サッカーと、ある友人

7.2. 初めてのサッカーキャラバン

7.3. それからのサッカーキャラバン


7.1. サッカーと、ある友人

ナミビアでの2年間、職種は理数科教師であったが、一部ではサッカー隊員として認識されている。実際に自分でも教師としての活動よりもサッカーイベントをした思い出のほうが強く残っているし、協力隊の広報誌にも、地元浜松の協力隊広報webにも、サッカーの人として紹介されている。

そして帰国後の今でも、毎年恒例となった協力隊OB/OG向けの有志のフットサルイベントを主催しており、理数科教師としての過去は見る影もない。


自分の人生にとって、サッカーはかけがえの無いものである。部活動や地域のスクールなど、まともにクラブには一度も所属したことが無い身で、えらそうな事はいえないが、事実だ。

父はサッカー部だったし、弟もサッカー部だったし、姉はサッカー狂だった。生まれて初めてもらったクリスマスプレゼントはサッカーボールだったし、小学校のころは父親から朝練しようという誘いまで受けた。


実際にサッカーに浸かり始めたのは中学生から高校生のころ。中学のころは体育の担任がサッカー部の顧問だったこともあり、雨が降ると体育はいつも体育館での1ゴールミニゲームだった。ここで相当鍛えられた。昼休みも当然ミニゲーム。高校生のころには、中学の同級生と一緒に、夜な夜な学校や公園でミニサッカーに興じた。暇さえあれば、弟と庭で1対1をやっていた。


このころがすべての始まり。みんな他の部活やってたり、学校のサッカー部入ってたりするのに、なぜか草サッカーというくくりで活動をしていた。活動するために学校の校庭を借りる手配をしたり、休みの日や夜に勝手に使って怒られたり、相手チームの調整をしたり。そのころから、サッカーが大好きになっていった。いろんなツテを使って同世代と10試合くらい重ねたが、たぶんほとんど負けなかったんじゃないだろうか。


ヤマハ主催のミニサッカー大会に出たのもこのころ。1995年。相手に外国人がいるチームとかと試合して、なんとも面白かった。いわゆるフットサルが日本に根付く以前の話。


ちょうど、Jリーグブームとドーハの悲劇がいっぺんにやってきて、Jリーグにあがる直前だったヤマハが近くにあったため、父親の影響もあり、毎月のようにサッカー観戦に行くようにもなったころだ。


大学に入学して、サッカーサークルに入ったものの体育会系の乗りについていけず、同じクラスの仲間でチームをたちあげた。同じように活動していたもう一つのチームと切磋琢磨、というか、わいわいやっていた。

毎週週末になると学校のグラウンドにいき、そこに集まった人数で試合をする。11-11になったら奇跡で、7-7くらいが一番よくて、ひどいときには1-1のときもあった。少人数でフルコートを使うってのはなかなか面白い。ルールを自分で作り、好きなように楽しむ、そういう具合であった。




社会人になってからも、フットサルチームに入った。自分のいた部署とは別のロケーション、別の部署のチームだったが、毎週のように三重から名古屋に通ってそこに参加した。営業系の人ばかりで、技術系の自分としては会社のコネを作るというよりは、ほんとうにフットサルだけのつながり。技術系の先輩たちのチームにも参加したものの、メインは一方のチームばかりだった。このチームは、先輩たちが職場のノリでスタートして2,3年経過したくらいのチームで、自分としても居心地がよかった。ちなみにサッカー部にも参加したものの、やはり体育会系のノリについていけず、次第に行かなくなった。

 

退社してしまい、住む場所が変わったので、なかなかそのチームに参加することもなくなったが、退職祝いも開いてもらったり、ナミビア赴任中も連絡をとりあったり、帰国後もいろいろと接点の消えない関係で、非常にありがたい。

ちなみにこのチーム主催で毎年部署別対抗大会という大会も開かれており、退職直後の大会で三重支店チームとして優勝した。その大会の写真が社報に載っており、退職者なのに写真が掲載されている、という珍事もあった。

 

そして派遣前訓練。前術のとおり、訓練所でもサッカーをしていた。ナミビア赴任の同期として、訓練初日から隣の席で講義を受けていた人の名前が、カズ。サッカーが好きで、ヒデとカズ。なんとも不思議な縁。 


やりたいことはやってみればいい。


これがカズから教わった、ナミビアでの大きな教訓。

俺は、新しいことを始めようとするとき、やりたいという思いよりも、面倒くさいという思いがあふれ、やらない言い訳を探してしまう。が、彼は違う。「とりあえずやってみようや。なんでやらんの?」となる。この思考の違いは大きい。

やらない言い訳を言えるということは、逆に言えばその課題を一つ一つクリアしていけば、実行可能、ということ。あとは気持ち次第なのだと思う。

 

ナミビア滞在中の後半1年で、ナミビアサッカーキャラバンというイベントを立ち上げ、主催することになったのだが、そのきっかけになったのは、カズの行動力だった。

 

人の集まりやすさ、サッカー部との距離感、滞在場所の確保、など、さまざまな理由から、私の学校でやるのがベスト、ということになった。始めは私はたぶん言い訳を探していたんだと思う。やりたいとは思うが、自分の学校で自分の主催でやるのは面倒だと思っていた。

 

が、やることにした。

 

ナミビアの発展がどうとか、技術移転がどうとか、世界の笑顔がどうとか、そういうことは正直どうでもいい。

ただ、サッカーがやりたい。

アフリカ人とサッカーをやりたい。

結果、2年間に華を添えたい。そう思ったら、やるしかなかった。

 

カズがいなかったら、やらなかったと思う。

俺を動かしてくれる人もいなかったと思う。 


縁というのは大事なものである。


まあ、あいつはただのバカだから、こんなこと考えてないと思うけど。



7.2. 初めてのサッカーキャラバン 

初めての大会として、私の学校が選ばれた。ナミビア人と、ナミビア中の協力隊員とでサッカーの試合をする、というのがもともとのコンセプト。このときはサッカーキャラバンなんて名前もなく、国際親善試合「ナミビア対日本」という、ちょっと大げさなタイトルを銘打った。


俺一人でなく、しゃー君と同居しているという環境も良かった。しゃー君も、カズ的な思考の持ち主で、どちらかといえばやってしまえ、というタイプ。二人でやればどんどん進む。


まずナミビアにいる隊員に連絡をする。いい返事がもらえる。こちらの人数を集めるというのが最低条件でもあったので、そこをクリアできたところで、準備スタート。

ナミビアは広いし、公共交通もそれほど整っていない。国土面積は日本の二倍。そんな全国各地から、バスを乗り継いで半日かけてみんながやってきてくれる。そんな彼らのエネルギーには感心する。


それから相手チームの調整。こちらは素人集団である。先生チームやサッカー部と試合をしたらボロ負けになるのは目に見えていた。こちらとしても活動を軌道に乗せるためには、試合を楽しめるという要素は大切であり、どのくらいがちょうどいいのか、と悩んだ結果、Grade9を対戦相手に選んだ。中学3年生レベル。日本でも、中学3年生のサッカー部と試合したら、勝てる気はしない。いわゆるU-15である。

幸いGrade9は私が理科を担当しているクラスであり、かつ、サッカー部で試合にでている子を知っていたので、彼にお願いをした。


勉強は嫌いでやんちゃな彼らだが、サッカーに関しての思いは強い。

よく校内で1ゴールゲームをやっているんだが、そのときのゴールの判断についての言い合いはひどくしつこいし、どのチームが出るのか、ということに関しても喧嘩になる。日本人だったら、もっとシステマチックにしたらいい、とか、早くまわそうぜ、となるのだが、彼らはもっと目の前のことに従順だ。


さらに、季節になると、各クラス対抗のリーグが開かれる。Grade8からGrade12までが同じリーグというのが、日本人的な感覚からするとまったく理解ができないが、それでもGrade8が本気でGrade12と試合しているのを見ると、心が熱くなる。何度か助っ人として参加したが、ビール飲んだあとだったりして、まともにプレーできなかったのが心残り。

クラスリーグが終わると、今度はクラブ活動。サッカー部は毎週のように他校でのトーナメントに参加し、優勝すると学校内をパレードしてお祭りになる。


そんな彼らにチームの編成を頼むと、嫌がることなく、やってくれた。

サッカーで学校を代表できるのは誇らしい、と。


対戦相手はオッケー。会場は学校のグランド。これに関してはレク担当の先生にお願いした。アフリカで、「予約」「約束」という概念ほどに信頼できないものもあまりないのだが。

当日驚いたことに、サッカー部が試合をしていた。ちょっとあっけにとられたが、私たちの試合が少し押した程度で、無事に会場も確保できた。


審判は、サッカー部のエースとキャプテンに頼んだ。N$10でお願いした。100円。ビールが買える。二人とも、前々から休みの日には私の家に遊びにくることも多く、フットバッグを教えたり、フリースタイルリフティングを一緒にやったり、それなりに仲良くしていたので、問題なかった。ちなみにエースは「ギグス」と呼ばれており、ドリブルの名手である。本名は知らない。


フライヤーも作成し、各教室に張ってもらった。

「なんでGrade9とやるんだよ。大人とやれよ」

と何度も言われたが、うちらは下手なんだよ、と無理やりごまかした。



当日。

日本人が15人くらい集まった。当然ながら、こんなことは学校創設以来はじめてのことで、校内が浮き足立っていた。いろんな生徒が家にきては、見学していった。

自分としても、これだけの人たちが集まってくれたことに、喜びを隠せず、浮き足立っていた。

  

試合観戦には多くの生徒が訪れ、グランド中を取り囲んだ。

 

1点先制されたものの、そのあとにまさかのしゃー君のロングシュートで同点。PK合戦になって、1人目に私が決めて、最後にカズがとめて勝利、という展開。

1000mの高地だったこともあり、運動不足でもあり、動けない自分を思い知ったが、ひとまず、第一戦、勝ててよかった。

 

ただ、試合後には、サッカー部の何人かが近づいてきて、「お前すげーよ」という握手をしてくれたりもしたし、審判をしてくれたキャプテンも、認めてくれていた。

自分の学校の先生である、しゃー君がゴールを決めたことは、生徒に大きな印象を残したし、私もこれ以降は学校でのプレゼンスが変わった。

生徒たちからは、サッカー出来る人として認識され、すっかりスター扱い。

アフリカで、サッカーのインパクトの大きさを思い知った。




そしてこの夜。

 

隊員みんなで狭い部屋にいっぱいになって、夜ご飯を食べ、宴が盛り上がっていたとき。

突然部屋の電気が消え、「ホーーホホホーーー」という原始的な叫び声が聞こえ、祭りのスタート。

 

cultural clubという伝統ダンスのクラブがあり、うちの学校のクラブは州の代表になるような優秀なチームだった。

そんな彼らが、歓迎の意味をこめて、やらせてほしいと自ら言って来てくれたので、お願いすることにしていた。それを俺としゃー君が仕込んでいた。

サプライズだ。

 

プリミティブというしかない、Ovambo族のダンス。

女はピンクと黒のストライプのドレス、男は腰巻。両手を頭の高さくらいに広げて、全員の手拍子にあわせて足踏みをする。ときにターンし、ときにジャンプ。生徒たちの笑顔がたまらなく可愛い。

 

日本対ナミビアのサッカーで盛り上がり、夜は伝統芸能に触れる。先輩隊員と一緒にこれを見ながら、「海外協力隊っぽいことやってるよね、これ」という感想になった。若干の皮肉もあるのだが、しかしこれほど気持ちの昂ぶった夜もなかった。

 

ナミビア活動中のピークにもなろうという夜であり、この感動があったからこそ、この後の継続と進化のモチベーションになったんだと思う。

 



7.3. それからのサッカーキャラバン

第一回のサッカーキャラバンを終え、これ以降も全国各地で10回前後の大会を開いた。コンセプトとしては、日本とナミビアの文化交流を交えたサッカー大会。あくまでサッカー大会をメインにすえ、その脇を文化交流で固める。

運営の方法も決め、オレとカズはあくまで言いだしっぺであり、開催場所と日程を決めるだけにして、それ以降の運営は開催場所の隊員にお任せ。相手チーム・会場の選定から、宿泊場所の確保、当日の運営まで、サッカー以外のすべてを任せた。


当然、協力隊員なので、いろんなことをやってくれる。ブライ(ナミビア風BBQ)屋台を呼んで試合後の宴会を盛り上げたり、市のスタジアムで開催し、市長が挨拶に来てくれたり。協力隊員のダンスチームが別で活動をしており、彼らのステージが行われたり。ナミビア側の伝統ダンスも恒例になった。相手チームもいろいろで、オリンピック代表選手がいたり、サッカーナミビア女子代表のキャプテンが観戦にきていたり。


ラッキーなことに、国内だけではなく、国外でも似たようなことができた。

派遣前訓練でのサッカーを運営してくれていた、オグという元Lリーガーがいたのだけど、彼女のおかげ。


海外協力隊の一つの余暇活動として、隣接するいくつかの国に旅行にいける、というシステムがある。それを使って、派遣前訓練で一緒だった同期が、ザンビアに集まった。ザンビアはリビングストンという一大観光地もあるため、だいたい周辺の隊員が集まる場所でもある。そのタイミングを同じにすれば、サッカーもできる、ということになった。


ここでも同期が15人ほど集まった。訓練所の同窓会のようなもので、赴任して1年経過して、いろんな思いを胸に抱えて、同期と話をするのは非常にいい機会でもあった。

ミニバスを借り、ザンビア国内二箇所でサッカーの試合をした。ここでも、現地の隊員が会場や対戦相手を調整してくれていた。





久しぶりの仲間たちだけど、一緒に体育館でサッカーをしていた仲間なので、基本的には普通にプレーができた。それから、同期ではないがガンバユース出身(稲本と同期)という人も参加していた。彼は当時ザンビアリーグでプレーしており、試合前のロッカールームでの原始的な雰囲気について話をしてくれ、興奮した。いまや彼はV川崎のコーチをしている。 

2試合やってどちらも負けたのだけど、良い思い出になった。


いつだったかオグから言われた言葉は、今でも大切にしている。

 

「プロスポーツ選手の役割の一つは、たくさんの人を一つの場所に集めるということ。スポーツにはそういう力がある。こうやっていろんな国からザンビアに集まったこともそうだし、ヒデはナミビアでそうやって多くの人を集めてる。これってプロスポーツ選手の価値と同じだよ。」

 

日本を出るとき、サッカーやりたいとは思っていたが、まさかこれだけのことが出来るとは思っていなかった。サッカーは世界共通語。まさにそのとおり。

そして、国際協力の正解はまったくわからないし、このイベントで何か変わったとも思わないけど、自分が満足できるということが、最低条件であり、かつ根本的な目標で、それをもって活動することが大事なのではないか、と思った。

 

このサッカーキャラバンは、俺の2年間を支えてくれた大きな出来事。

 

そして現在、年に一回、アフリカンカップというフットサル大会を開催している。アフリカ各国の協力隊OB/OGを集め、国別対抗の大会をしている。

もともとは別の人たちが開催していたところに、東日本大震災のチャリティマッチを契機に参加するようになり、いまは主催をしている。

 

海外協力隊という共通項、そして、サッカーの力。