11. 30歳の高校生と30歳のボランティア教師

11.1. クレーム、そして首都への異動

11.2. 多民族社会

11.3. 暴力教師現る

11.4. 同い年の家庭教師

11.5. 卒業式


11.1. クレーム、そして首都への異動

Ekuloに来て1年ほどたったころ、まさかの出来事が起こった。

 

サッカーキャラバンを成功させ、頭のハゲと手術に悩み、ようやく復活しようというそのころ。

 

ちょうど首都にいたとき、JICA調整員のところに校長からレターがきた。

「君と生徒の意思疎通ができていないと、生徒の親から苦情があった。おそらく原因は英語力だ」

とのこと。

青天の霹靂というのはこういうことをいうのだろう。

しかもそのクラスは8B。数学を教えていて、自分にとっては癒しとも言える一番好きなクラスだった。

 

校長いわく、今後は授業をすべて外す、事務的なことやコンピュータ的なことをやってほしい、とのこと。

それはそれで面白いのだと思うし、サッカーをメインに活動するのも悪くないなぁとは思っていたのだけど。

 

が、JICA側には別の思惑があり。首都で一人ボランティアを要請されてるところがあるから、そこにどうか、という話。ナミビア在住10年を超える重鎮の日本人がいるのだけど、その義親にあたるおばあちゃんが校長先生をやっている学校があり、そこにどうか、と。

 

自分としても、やはり理数科教師として仕事をしたいという気持ちもあったし、せっかくだから田舎と首都と両方住めるのは面白いな、と思っていたところでもあり。任地変更することに。



異動の2日前くらいに学校内に発表。

とても面白かったのは、学内の理科のスーパーバイザー的な先生が、すごく悲しがってくれたこと。

「俺はいつもわからないことはMr.Inagakiに聞いていたのに、これからどうしたらいいんだよ」

と。

彼は、私が赴任してきて授業を持つときに

「G12は私が教えてきたクラスだから、Mr.Inagakiが教えたら生徒から不満が出る。」

みたいなことを言っていたのだけど、1年たって、十分に信頼してもらえたんだな、と。


それから生徒たち。

泣いてくれる子もいたし、怒ってる子もいたし、本当にみんな好きになってくれたんだなと思うと、感無量。

「You are the best math teacher」

とか言ってもらえるのは、本当にうれしかった。


そして離任の前にはたくさんの子たちが手紙をくれた。フォーマットでもあるんだろうなっていうくらい、みんな文面が似ているんだけど、趣向を凝らしてくれていた。



ハゲが出来るほどにつらい毎日ではあったのだけど、自分のプレゼンスみたいなものは、きちんとこの学校で成立していた。

教師って仕事は本当に大変だと感じていたけど、こういうことが起きるから、みんな教師を辞められなくなるんだろうな、と思った。自分の子供が数百人単位で出来た。

 

最後の夜、1年間隠していたファイヤーポイをみんなに疲労。

いっぱい集まってくれた。

 

そして、北部を離れ、首都へ、。

最後の最後、iPodを盗まれたのは、完全に気が抜けていたからだろうな。

 

首都の白人居住区、そこにある1LDKの住まい。日本でも住んだこと無いと思えるレベルの住宅。

1年間の北部生活を経て、後半1年、また新しい暮らしが始まった。


11.2. 多民族社会

新しい学校は、Jakob Marengo Secondary School。白人校長が経営する半官半民のような学校で、校舎の一部が日本のODAで建てられている。教師の国籍は多岐にとんでおり、ナミビア(アフリカーンス、ヘレロ、ダマラ、オバンボ)、ルワンダ、ジンバブエ、シエラレオネ、アンゴラなどなど。生徒も同様に、ナミビア(ヘレロ、ダマラ、オバンボ)、ジンバブエ、アンゴラ、コンゴ、などなど。各地の難民を受け入れる学校としての存在である。通常ナミビアの学校では入学の際にレベルによって入学の可否を選別するのだが、この学校はそれをしていないため、レベルの格差がすごく、特に勉強嫌いな生徒が集まっている。いわゆる不良校といえる。


隣国アンゴラで長いあいだ紛争が起こっていたこと、ジンバブエでハイパーインフレが起こっていたことなどから、アンゴラ人、ジンバブエ人が一大勢力となっていた。

ジンバブエは南部アフリカ地域では教育水準が非常に高く、隣国から留学する生徒も多いのだが。


複数の民族が入り乱れているということは、学内で複数の言語が飛び交うということ。

アンゴラ人が多いので、授業中のおしゃべりはポルトガル語がかなり多い。

こういうところでこそ、英語が公用語、というのが生きてくるのだと思う。

そして、彼らは当然ながら英語が弱いため、勉強に支障が出る。


生徒とは異なり、先生方はかなりレベルの高い先生が多かった。

意識も高い。

校長がキンキン怒るからだろうか。


学校は、黒人居住区、くわゆるカタトゥーラにあった。私の住んでいた白人居住区から車で30分。朝は富から貧へ出勤し、夕方は貧から富へ帰る。普通に生活しているだけで、貧富格差を間近に感じることになる。






11.3. 暴力教師現る

前回に引き続き、年度末の入校になったため、はじめは試験監督をしたり採点をするところからスタート。この学校、すごい。ほとんどの答案が3割くらいの得点しかとれてなくて、どうやって卒業するんだろうってレベル。


年末を超え、新たな年度になり、いよいよクラスをもつことになった。

結局、最終的には3クラスをもつことになり、しかもG8の数学1クラス、G9の数学2クラス。


前回の学校では毎日6コマ程度あった授業数も、すっかり減少し、授業準備的にはだいぶ楽になった。

ここにたどり着くまではいろいろあった。


この学校、実は教員の絶対数はかなり足りていて、人数的な部分ではボランティアを入れる必要がまったく無い。

教育委員会は、各学校各教師の最低コマ数を決めているのだけど、始めに作成していた時間割だと、何人かの先生がそのコマ数を割りそうになった。

Ekuloにいたときは、全部の先生が毎日ぎっしり授業をして、それでも足りないくらいギリギリでやっていたので、マンパワーとしてのボランティアがいる価値はあったのだけど、ここはまったく違っていた。もちろん、ボランティア教師の役割はマンパワーではなく、本来は技術移転ということで、カリキュラムの改善や教師の指導といったことも求められている。ただ、私はもともと教師としてのキャリアもなく、そこまでの力はなかったので、マンパワーとしての活動と割り切っていた。


そして時間割を作成しているうちに、私の授業が全部なくなりそうな自体となった。先生たちは、最低コマ数を満たさないと給料が減るわけで、そのコマ数は守りたい。私としては、それなら授業は外してもらっても構わない、ただし、それなら学校に毎日通う必要はないし、もう少し自由にやらせてもらえるだろうか、ということを校長に話した。

せっかく首都にいるし、別のボランティア活動の話も見えていたし、いろいろやってみたい気持ちはあった。

が、校長は、おそらく、その状況が判明してボランティアを入れられなくなることを恐れたのか、私にどうしても授業を割り当てようとし、どうにか時間割を修正した。


授業のコマ数は減少したものの、授業のしんどさは倍増した。

すべてのクラスが、勉強をやる気はなく、ただただ騒がしいだけだった。

また3クラス受け持ったうちの1クラスは、特別プロジェクト的なクラス。ナミビアでは、2回留年すると退学になるという制度があるのだが、そのクラスは、その退学になった生徒を集めたクラスだった。が、特に他のクラスも差異はなく、同じ程度にどのクラスもやんちゃだった。


教室が多民族多言語という状態はなかなか興味深く、教室内で「○○族はあれだから」とか「●○族は黙ってろよ」とか、そういった民族差別のようなことも起きていた。


とにかく、授業中におしゃべりをするだけならまだしも、教室の出入りを自由にしていたり、部屋で歩き回ったり、大声をだしたり。何から何まで。


ひとつ面白かったのは、白人教師と黒人教師の違い。校長と教頭はナミビア国籍の白人だったのだが、二人の授業は完全にコントロールされていた。コントロールというより、軍隊のように。教室はシーンとして、誰もが静かにしていた。真面目に授業を受けていた、というのとは意味が違い、ただ、静かだった。

私の勝手な推測になるが、これもアパルトヘイトの名残で、おそらく、白人は黒人を統率することに慣れており、黒人は白人に従属することに慣れてしまっている。これは白人教師と生徒の関係に限らず、白人教師と黒人教師の間にも同様の関係だった。職責の問題ではなく、人種の問題にしか見えなかった。


自分がこんなにキレる人間だということを、初めて知った。もともと、怒るということが苦手なため、適切な怒り方というのを習得できていない。なので、頭がパンクすると、一瞬で爆発してしまう。

テストの答案を返すときに、騒ぎが止まらないのでびりびりに破って窓の外に捨てたり。生徒に思いっきりXXXしたり。シャツが破けるほどに生徒の胸倉をつかんで壁にXXXXX説教したり。思いっきり頭をXXつけたり。しまいには、、、XXが飛んだ。


XXXの部分は、ご想像にお任せします、てことで。





11.4. 同い年の家庭教師

 

毎日かなり笑えない授業を送ってきて、授業を放棄して外でボーっとしていたことも何度もあったのだけど。

G12の生徒から頼まれて、家庭教師のようなことをやっていた。チャリティという名のマラウイとジンバブエのミックス。

 

水準以上には勉強のできる子で、かつ、やる気がとにかくあった。

夏休みにも毎日のように。

それが興じて、国家試験のシーズンが近づくと、周辺のG12の生徒有志含めて過去問の回答会をやったりもした。

私が途中で帰国になってしまったので、最後まで見てやれなかったのが非常に残念だった。

 

普通に家庭教師として勉強を教えていたのだが、あとあと年齢を聞いていると、実はチャリティは私と同い年。そのとき私は29歳。

 

29歳の高校3年生、ということになる。

 

この学校、総じて言えることなのだが、年齢の幅がとても広い。

最年少のG8に関しては、ある程度のところで収まっており、おそらく13~15歳くらいなのだが、G9以上になるとさっぱりわからない。30オーバーも何人かいたのだと思う。

 

難民というか、アンゴラで紛争がおこっているころに、教育を受けることが出来ず、ナミビアに来て少しずつ進級して、高校を卒業するころには20歳を優に超えているような状況になっている。

 

日本では考えられないが、貧困・紛争・政治システム、といったさまざまな混乱が教育に影響を及ぼし、そうして教育システムがまともに働かないために、国のシステムが改善されない、という悪循環が起きているのだろう。

 


11.5. 卒業式


ひどく厳しい1年間ではあったが、最終的に、私の青年海外協力隊としての任期が終わるため、年度の途中ではあったが学校を離任することになった。

 

最終日、朝礼が開かれて、その最後。校長先生が「残念なお知らせがあります」と言って、私の離任を切り出した。

ジンバブエ人のモヨ先生が、代表でお別れの挨拶をしてくれた。

 

「あなたがやっていたことを私たちはみんな知っている。放課後に生徒に勉強を教えていたり、休みの日に授業をやっていたり。そういうところに私たちは影響を受けた。あなたはきっと知らないだろうけど。」

 

と言っていた。衝撃。まさかそんな風に見られていたとは。

 

そしてお気に入りの生徒二人がでてきて、その子たちも、周りに茶化されながらも一生懸命挨拶してくれた。何をしゃべっているかはまったく聞こえなかった。

 

最後に記念品をくれた。

これは、事前に、何が欲しい?と聞かれたときに答えていたもの。学校の制服。

 

そして俺も挨拶。

とても苦しかったけど、楽しかった、と。

 

最後に、校長が、笑っていいともばりに、

「じゃあみんな、最後に日本語でお別れをしよう。アリガトー」

というと、

生徒は全員

「アリガトー」

と。。。。

 

不良校の最大の長所は、お祭りに強いことだ、というのは日本もナミビアもおそらくあまり変わらない。

感動した。

そして朝礼から引き上げていくとき、多くの不良たちが私と握手を交わしていった。 



制服に着替え、最後の一日を過ごした。

 

最後の授業。

各教室で、生徒にしゃべらせ、それを撮影した。やらせの思い出作り。

 

そして自分も、2年分の思いをしゃべった。

 

俺に足りてなかったのは、授業のコントロール、つまりはアイスブレイクと演出、演技だと思っているのだが。

結局それは、自分が子供のころに学校に対してどういう風に向き合ってきたかに直結している。

 

「勉強したくないのはわかる。自分だって好きではなかった。勉強する理由なんて説明できない。わからないから勉強したくもならない、きっと。けれど、その理由を知りたいのなら、やり続けるしかない。そう思う。

この学校に来て、本当に毎日苦しくてしょうがなかった。ダメなこといろいろやったし、申し訳なかった。けれど、こんな先生のこと忘れないだろ、きっと。」

 

Ekuloのときもそうだったけど、一日ずっとスターみたいな状態で。いろんな子達が、行かないでって言ってくれた。「私がガバメントにレターを書くから」とか。

 

学校で一番お気に入りだったマリアという子は、

「この前のパソコンの授業でメールアドレスを作ったの。だからメールしてね。Mr.Hideと連絡するために準備したんだから」

と。

「because of you」を連発され、なんだか告白されてるような気分。マリアはアンゴラ人で、英語があまり得意ではないので、会話がうまく進まないのだが。。

 

ナミビアにいる2年間、生徒には、「ヒデサンと呼べ」ってずっと言ったけど、結局ミスターヒデ、とかミスターヒデサンとか、ミスターイナガキとか、そんなだった。

 

それにしても。

この日のほっとした感じはとても大きかった。

 

2年間、授業って面ではつらいことだらけで、任地変わって首都に来てさらにつらさが倍増した感じが強かった、ということもあり。

 

先生向いてないなぁ、というのが最終的な感想。

うまく人を怒ることができるようにならないと、今後とも生きるのが険しそうだ。