12. 途上国と向き合うということ

12.1. 帰路で考えたこと

12.2. おわりに

12.3. その後


12.1. 帰路で考えたこと


学校での活動を終えた後、トレードフェアという産業展示会に参加したり、後輩隊員やお世話になった現地の日本人、学生などを集めてパーティーをしたり、忙しい毎日をすごして、帰国となった。




まさか帰りにひと悶着起こるとは。


ナミビアから南アへ、何の問題もなくフライト終了。南アにて、マラウイから帰国する同期と再会。南アからは同じ便で帰国するようだ。日本を発つときにも同じ飛行機で来た彼らとの再会を喜ぶ。


そして南アから出発。


離陸中に、一人の白人がトイレへ向かった。死にそうな顔をして、ヒーヒー言っている。


離陸が無事終了したあとも、彼は通路で倒れたまま。


「ドクターはいますか?!」

「私は医者ですが」


という、まるでテレビドラマのような風景。日本人の医者が偶然乗っていた。


どうしたんだろう。気圧が変わって体に異常があったのかな。死なないでね。助かるといいな。


2年間、世界を笑顔に、というキャッチコピーのもと、活動してきた協力隊員が10名以上その飛行機に乗っているのに、一人の命を救える人は一人もいない。

自分は目の前で苦しんでいる人に対して何もできないのか、と。大きな無力感があった。


医者でもないし、看護師でもない。技術的に自分に出来ることが無いのは自明なのだが、それにしても、本当に何も出来ない、という無力感がつらかった。


生きていてください。

そう思った。


しばらくして、飛行機は南アに引き返すことになった。

離陸から着陸まで約3時間。


引き返すことに何の文句もなかったし、彼が無事でいますように、自分たちも無事にこのあとの手続きが進みますように、と、それだけを思っていた。


幸い、同じ飛行機に乗っていたマラウイの隊員のなかには、訓練所で隣室だった頼れる友人がいたため、彼と連携をとることもできたため、不安になることも無かった。



そして南アに到着。

 

誰かが入ってきた。

医者か、と思った。無事なら何よりだ、と。

 

そんな侵入者の背中に書いてあったのは

 

「POLICE」

 

なんと。。。。

 

推測なのだが、彼はヤク中だったのだろう。おそらくは離陸前に一発キメてしまい、気圧の効果によって妙なアガり方をしてしまったのだろう。

 

引き返すことには何の文句も無い、自分には苦しんでいる人を助けることも出来ない。

私の気持ちは、すべてインド洋に投げ捨てた。

 

そのあと再度出発した。

香港でのトランジットはできなくなったものの、航空会社によって空港直結の素晴らしい宿をあてがわれ、香港で一泊、というか朝まで飲んで、翌日、無事に日本に帰国した。

 


12.2. おわりに

当初の赴任の目的は、ともに住むこと。

Give me 1 dollarに対する答えに少しでも近づくために、一緒に暮らすこと。


2年間、特に病気になったりはしなかったが、ハゲが出来たり、手術をしたり、クビになって異動したり、赴任前に想像していたよりも、いろいろなことが起こった。想像していた暮らしよりは、はるかに文明的な暮らしだった。

しかし、2年間ナミビアに住む、という大前提を達成することはできたし、その目的があったから、ブレることもなかった。


協力隊に行く人には、大きな志を持っている人がたくさんいる。実際、協力隊員を募集しているチラシにも「世界も自分も変えるシゴト」と書いてある。そうした理想と志を抱いて赴任した人たちは、現状に対して不満もあっただろうし、それを打ち破って大きくなることもあっただろう。何か自分でターゲットを設定して、そこに向かって問題を解決していく、という論法を貫いた隊員もたくさんいる。自分の、ボランティアの存在価値に疑問や不満を感じて、途中で帰国する人もいるし、任地変更をする人もいる。


私はそういう大きな感覚はなかったので、まずは生活すること、一市民に近い存在として生活すること、を意識した。要するに、日本にいるのと違わない感覚で、普段どおり。


その気持ちの小ささというか、中途半端な設定が、長短あった。自分としての満足はあったが、協力隊員としての活動という視点で考えると、不足している部分は、おそらく多々あった。


途上国には援助が必要だ、彼らがビジネスできる土壌を作ることが素晴らしい、途上国と日本をつなげる、などなど、各個人の意思があり、さらにそれを具体化するフレームワーク的なものもある。協力隊の活動のワークモデルというのは、すでに無数にある。

そのゴールにたどり着くためのモデルは確立されているが、それをこなすだけでは日本で仕事しているのとなんら変わりないし、もっと大事なことは、そのゴールが正しいのかどうなのか、ということに悩みぬくこと、だと思う。


ただ、協力隊の2年間だけで見ると、そのゴールは正しいと仮定して思い込んで過ごすことのほうが、充実感はある。もしくはひたすら好奇心にまみれて、実験的にいろんなことをやってみること。そういった過ごし方は、協力隊として充実できるひとつの方法論である。

俺には、そのゴールを思い込むことも、好奇心もそこまでなかった。あったのは、自分がやりたいこと、できることを、精一杯やって、自分が楽しむ、ということ。


相手に対して、という気持ちは大前提であるが、国際協力とか国際理解とかいったところで、結局は相手がそれを望んでいなければ、文明の押し付けでしかない。しかもその文明が正しい方向に向かっているのかどうなのか。世界各国が同じスタイルになっていくことに意味があるのか。

そうした葛藤を含めつつ、それでも現地の人に感謝され、一緒に笑えるときには最高に幸せだし、そういう気持ちを国をまたいで共有する経験をするために協力隊はそこにいるんだと思う。


彼らに対して、彼らがしてほしいことを想像して、やる。ただし、それが本当に彼らのためになるかどうかは、彼ら次第で、こちらの押し付けるところではない。

自分が、彼らのよろこぶ顔を見たいから、行動しているだけ。彼らが喜ばなかったのなら、それは方法に失敗している、というだけのこと。

彼らのために、というのではなく、自分のために。結果として、彼らのことを少しでも幸せにできているのなら、そんなに素晴らしいことは無いだろう。

 

ボランティアは自己満足、だが、少なくない人はそれで笑顔になってくれたし、自分の人生にも影響はあった。

それが2年間のひとつの結論。



12.3. その後

協力隊を終えるとき、きっともうこの業界に関わることはないだろうなと思っていた。

が、結局、関係ある人と関係したい、という性格の自分にとって、関わらないではいられない業界になった。


活動を終えてすぐ、調整員の試験を受けたら、受かった。

隊員を終えて直後に調整員に受かるというのは、過去にも数人しかいない快挙だったそうな。


バングラデシュにいく予定になった。給料も、今の自分の倍くらい。

研修まで入ったのだが、結局辞退した。


協力隊OBのおおくが次のステップとして目指す職業でもあり、申し訳ないし、悔しかった。


理由は自分でもはっきりとはよくわからない。

そのころいろんなことがあって精神的にボロボロになっており、かつ、調整員の研修をしているうちに、協力隊を抱えるということに関して重く考えすぎてしまったのだと思う。

出前講座というのにも二度ほど参加した。

小学校や中学校で、協力隊としての活動について、講演をするというもの。

中学の時の担任の縁や、浜松のJICAからのオファーなどで。

とても楽しかった。


仕事も、結局元の業界に戻った。今は違う業界だけど、やっぱりサラリーマン。

ただ、ナミビアで知った中国系メーカーに入社したり、今はまた海外赴任のある仕事をすることになって協力隊関係の人と現地で出会ったり。

 通信事業者=>海外協力隊=>外資系通信機器メーカー=>放送系施工会社(海外事業下請け)

という流れは、協力隊がなければなかった人生。

そして、東日本大震災のチャリティをきっかけに始めたアフリカンカップ。

隊員としては先輩ばかり、しかも全然違う国の人たちで、協力隊時代には絡むこともなかった人たち。

はじめは参加させてもらう側だったけど、いまでは主催する側になり、50人以上の人たちが有志で毎年集まってくれる大会になった。


こんなことになるとは、思ってもいなかったけど、いまでは大事なもの、なんだと思う。